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金となり、次の植林に回すことができます。これまでは緑化そのものを目的として植林を行ってきたので木の種類も単一でしたが、これからは果樹や木材などさまざまな木の種類を植えていくようにしたのです。どの木の種類を植えるかの選択は住民に委ねられました。タゴール協会はコーディネーター及びサポート役・調整役として全体の運営を行いながら、苗木の生産と安価での供給を担っていくことに

なりました。住民のなかには自分のお金で苗木を購入し、自主的に植林を行う人も現れました。こうして植林はますます地域に広がっていったのです。

 

第八章 それぞれの死

 その1年後。視察のため1999年1月11日にコルカタに到着しました。翌朝、突然牧野先生からダスグプタさんが亡くなったことを知らされました。驚いて言葉が出ませんでした。高齢だったとはいえ、いつも矍鑠とされてい

 夕方、火葬場へ運んでいく儀式にも参加させてもらいました。ガンジス河のほとりにある火葬場までの4kmほどの道を大勢の人に見送られての行進です。誰もが口を閉ざし厳粛な雰囲気のなか、ゆっくりと棺が運ばれていきます。火葬場に着くとあたりは線香の煙が立ち込めていて、順番待ちの遺体が並んでいるようでした。テレビの取材か、カメラを回しながらインタビュアーが何人かにコメントを求めていました。そうしているうちにやがて順番が来たようで、ダスグプタさんは釜のようななかに入れられていきます。そこまでを見届けてそこを後にしました。野辺送りのような簡素であっけないお葬式でした。

 その8日後、日本から緊急の連絡がはいってきました。翌日からスケジュールを消化し、ランガベリアでの視察を終えてオフィスに戻ると日本に電話をするように言われたのです。電話を借りて連絡をいれようとしますがなかなかつながらず、試すこと1時間。困り果てたところに今度はすぐに帰国せよとのファックスが届きました。予定変更のためチケットをコルカタのタゴール協会に預けていたことが幸いし、さらに変更をお願いしました。船とジ

ープを走らせて急いでコルカタのホテルに着いてみると(それでも4時間かかります)、レセプションで数枚のファックスと明日のフライトに変更されたチケットを手渡されました。日本に電話をしてみると、義祖父がなくなったとの知らせでした。ずっと入院生活が長かったので覚悟はしていたものの、その急な知らせに呆然。ダスグプタさんに続いてどう

​して、という思いでした。ちょうどガンジス川を渡

てそういう心配は必要ないものと思っていました。タゴール協会の心棒としていつまでも生きておられる存在なんだと思っていました。ともかくも弔問に向かいました。ダスグプタさんはタゴール協会に安置されていました。部屋中こぼれるように花が供えられ、また線香の煙りが溢れ、弔問の人が次々と訪れてきていました。私も顔を拝み、お花を供えて手を合わせました。

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