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っているときに義祖父は旅立って行ってしまったのでした。

 じつはその3年前の1996年。3月のインドの視察訪問中に私は父親の死の知らせを受けていました。癌を患って半年ほど入院をしていましたが、一時退院していて、まだそれほど深刻な状況ではないと思っていました。出発の2週間前、出張で近くまで行ったので帰りに家に寄ってみると、本人も少し弱っていたことと母親がとてもたいへんそうだったので、ひとまず入院したほうがよいだろうと、翌日一緒に病院に移動しました。帰り際、窓の外をじっと見ている父親の横顔を認めながら病室をあとにしたのでした。そのときの横顔がいつまでも目に焼きついていました。このときも同じように後の予定をキャンセルして、ガンジス川を渡って急遽帰国したのでした。

 

 2008年8月。福岡先生死去の報がはいってきました。ダスグプタさんのお別れの会が後日行われた際に、福岡先生にそのお知らせをし、メッセージをいただいたのが最後の交流となってしまいました。盟友を亡くされた痛恨の思いと粘土団子を一緒に撒いていきたいという思いがそこには記されていました。翻訳をしてメッセージを送りました。

 

 2010年1月。インド植林プロジェクトを出版する計画が持ち上がり、取材も兼ねて矢崎事務局長と同行のお二人も含めてインドを訪問しました。もちろん牧野先生のご案内です。体力がだいぶ弱られてきているようで、奥様と娘さん(インド生まれです)そしてお孫さんも一緒の旅となりました。最初にこのプロジェクトが始まった地域であるポトンダ地区に入りました。疲れが見える牧野先生はオフィスに残り、他のメンバーで視察に出かけました。

そして視察を終え、戻ってきたときには、牧野先生はすでに旅立ってしまっていたのです。椅子に腰を掛け、口は開かれ、インドの大地に足をつけたままの姿でした。不意をつかれ呆然となりました。いつかはという覚悟はあったのですが、まさかという思いでした。インドに骨を埋めたいとおっしゃっておられたとおりの最後となりました。

 まわりが慌しくなりました。とにかく病院に運ばなければならないようです。大きな町であるジャムシェドプルの病院まで3時間。私たちもついていきました。死因などきちんと証明をしてもらわなければならないのです。私たちはどうすることもできず、見慣れない空間でただときをやり過ごすしかありませんでした。いつホテルに移動したのかはよく覚えていませんが、ホテルの暗い食堂で言葉もなく食事を摂ったことが思い出されます。牧野先生が逝ってしまわれた喪失感が時間がたつにつれて大きくなり、すっぽりと包まれてしまったように感じられました。

亡くなったポトンダオフィスにある牧野先生のお墓

 

 ダスグプタさん95歳、福岡先生95歳、牧野先生85歳。義祖父は88歳。それぞれの場所、役割において功を挙げ名を成した偉大な人たちです。私の父親は67歳という若さでした。同列に扱うには相応しくありませんが、戦前戦後をそれなりに生き、母と結婚し3人の子どもを育てあげて逝きました。

 ダスグプタさん、牧野先生、義祖父、父親と4人までもインド訪問中にその臨終や訃報に接

​その10
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